物語は物語る−ファンタジーの生まれるところ#4 ロードス島戦記
『ロードス島戦記』はファンタジーか。これは非常に難しい問題であると思います。この問題を考えるにあたり、まずはその成り立ちまでの経緯をざっと追ってみましょう。まず『ロードス島戦記』は、当初『ダンジョンズ・アンド・ドラゴンズ』というテーブルトークRPGの紹介としてパソコン雑誌『コンプティーク』に記事が載りました。当初はそのゲームのシステムを使って、作者である水野良が考えたというロードス島という舞台の上で冒険を行うというものでした。 これが当時のRPGブームに乗り、小説化→PCゲーム化→アニメ化と、どんどん拡大の一途をたどりました。小説はその拡大の初期にリリースされたものです。 私の考えでは、『ロードス島戦記』の魅力とはゲームの様子を小説にしたことにあるのではないか思います。別の記事ではきむらこーたくんがそうした側面とは別に、流行ものとしての『ロードス島戦記』について語っています。 もちろんそういう人たちも多くいたと思いますし、その前段階としてファミコンでリリースされた『ドラゴンクエスト』などのRPGの影響というものも無視できません(つまり、剣と魔法の世界を舞台とする『ロードス島戦記』をジャンルとして受け入れる土壌ができていたということです)。 ですが、そういう人たちにも流行りものとして受け入れられた原因はなんだ、というのが私の問題とするところであり、それがゲーム小説だからと考えるのです。
『ロードス島戦記』は、始めは作者である水野良氏の頭の中に存在するに過ぎませんでした。それは彼が高校時代から温めていた空想の世界です。 これは、前述した物語の発展とファンタジーの生まれ方、ひいては神話が生まれる過程とほとんど同一のものです。 そもそも私は心理療法とファンタジーRPGの奇妙な類似点について長らく疑問を抱いていました。例えば、心理療法にはロールプレイという治療法があります。このロールプレイとは、いうまでもなくロールプレイングゲームと同様の意味です。この治療法では、治療者がクライアントに「他者」の役割を演じさせることで、逆に自分の問題に対応させていくというものです。 また、「箱庭療法」というものではクライアントに真っさらな箱庭を与え、その中をクライアントの自由にアレンジさせることで自分の心を浮き彫りにさせる治療法です。 この「他者を演じる」「自由な箱庭を作る」という行為は、まったくRPG好きな人がかかる一種の「病気」と同じものです。 RPGをやる人たちには、男なのにやたら女キャラをやりたがるやつがいたり(またこれがうまくて気持ち悪い!)、シナリオを作るにあき足らず世界を作り、細かな部分まで設定する、いわゆる設定病にかかる人が少なくありません。 もちろん、心理療法がここでいうほど簡単なものではありませんし、RPGをやっている人間がみんなこんなんばかりというわけではありません(そうそう、そういう人に限って「自分は違う!」と言うんです)。 しかし、精神を病んだ人が、その暗闇から帰ってくることが困難であることは言うまでもありません。河合隼雄氏はそれをして「時として命がけの仕事」だとさえ表現しています。そして不思議なことに、多くのファンタジー作家も同じようなことを述べているのです。 J・R・R・トールキン ミヒャエル・エンデファンタジー、物語、RPG、心理療法、この不思議な共通点についてここで多くを語ることはしませんが、私は多くのファンタジー作品が取る「異世界に行って帰ってくる話」を「往きて還りたる物語」と呼んでいます。無論、これはトールキンの『ホビットの冒険』の副題でありますが、この言葉が私の胸にストンと落ちてしまい、ファンタジーを表す言葉として根づいてしまったのです。 この「往きて還りたる物語」については来月の「映像とファンタジー」で取り上げたいと思っています。
ともあれ、『ロードス島戦記』はゲームという機会を得て水野良個人の「お話」からある程度の範囲内の人間にとっての物語として発展したと言えるでしょう。そしてそれを読んだ、多くの水野良少年たちに、どれだけ魅力的な存在として映ったでしょう。 そうした水野良君には『ロードス島戦記』とは小説ではなく、「自分のファンタジーを語るための材料」であり、小説で書かれていることもロードス島の公式ガイドブックにすぎないのです。 実際、私の意見で『ロードス島戦記』を評価するのであれば、そこに描かれているキャラクターの面白さと、それをつなぐ物語との、あまりにも細い絆が気になります。個々のキャラクターの考え方や行動、いわばキャラクター性としては十分魅力的なのに、それを引っ張っていく物語の筋立てがあまりにも貧相なのです。 それは、水野良の中でメンバーの顔を通して深化した他者(=小説に登場するキャラ)と、それによって自分が作り出さなければならなかったお話の、密度の差なのだと考えています。 それは、我々と友人との関係に似ています。仲のよい友人であれば、そのモノマネをしたり、ちょっとした演出をして「キャラクター」として活かすことはできるでしょう(それにしたって大抵の観察眼ではできませんが)。しかし、その友人を一個の人間として考え、動かしたとき、我々はどこまで彼を表現することができるでしょうか。 無論、それには作り手としての目と腕の技量ということが問われます。そして、それを物語に乗せて語るときにこそ「ファンタジー」が誕生するのだと言えるでょう。それは現実を反映した説得力の問題です。 『ロードス島戦記』は文章がヘタだという話はよく聞きましたが、このために登場人物は水野良のシナリオのための人形となっているというように感じられてなりません。その最たる点が、パーンとディードの恋愛です。
はっきり言って、作中ではディードが種族の壁を超えて(ヒトとサルみたいなものですよね)恋に落ちるほどの理由を私は見出せませんでした。仮にディードが世間知らずのちょっと高飛車な某国の(人間の)お姫様であっても、たいした違いはないのではないでしょうか。 『ロードス島戦記』以降の「ふぁんたじーしょうせつ」と言われている作品は、総じて人間を描いていないと思いますし、世界を描いていないとも思います。タテマエとしての世界設定は立派だが、そこで何が語られるかといえば、ただのメッキです。非常に薄い。 その意味で、その昔わたしたちが高校生の頃に、山本首領が「世界をまるまるつくるなんて金儲けの商業主義にすぎない」と言っていたのはまことに慧眼というしかないでしょう。 もっとも、『スレイヤーズ!』の作者の神崎一のように確信犯として「娯楽小説」を書いている作家もいるのでしょうし、それにはそれなりの商業的な価値があります。しかし、私としては河合隼雄氏の言葉に同感です。
時に、「本格ファンタジー」などと銘打たれている「つくり話」に接して、げんなりさせられることがある。一般にマンガの作品には、このようなものが多いように思われる。(『ファンタジーを読む』講談社+α文庫)そういう意味では、後日書かれた外伝において、エルフの父親と人間の母親を持つハーフエルフの少女リーフが「あたしは幸せ」と言ったシーンで、彼女を無言で抱きしめるディードリットは、より深みを増したといえるかもしれません。それでも後づけの感は否めませんが……。 さて、そんな「つくり話」にも、ファンタジーとしてそれなりの価値はあります。もちろんそれは商業的にではなく、です。それは、なぜ一時期あれだけ流行ったテーブルトークRPGが廃れてしまったのかということと、なぜそのテーブルトークにのめりこんで失踪してしまった少年が出てきてしまった事件(『大迷宮』というタイトルで映画化されています)などが起こったのか、ということに関わってくるかもしれません。 それは、決してファンタジーが賛美されるばかりのものでないことを示唆します。現実が絶対的なものでないのと同じく、ファンタジーもまた、絶対の存在になることなどありえないのです。このことについてもまた、機会があればお話できるかもしれません。
Fantasy is on your side. Author: Ö澤 郁人
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